2010年7月16日金曜日

オレとミッシェルガンエレファント。 1998年-1999年


98年11月「ギヤ・ブルーズ」がリリースされた。
真夏のフジロックで話題となり、
夏にリリースしたシングルはオリコンチャート10位以内に入るなど
どうみても「前より人気がでてきてる」のは間違いなかった。
そんなこれまでの着実なバンド活動が1つの臨界点に到達したかのような
ヘヴィなアルバムが「ギヤブルーズ」だった。
このアルバムから(正確には先行シングルのスモーキンビリーから)彼らのバンド名表記は
「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」と大文字表記になった。
こういう変化も実に的確に彼らの状況を表していて当時「うまいなあ」と思ったのを覚えている。

正直最初に「ギヤブルーズ」を聴いたときは、そこまで好きになれなかった。
「チキンゾンビーズ」の狂った疾走感が大好きだったオレにとっては
「ギヤブルーズ」は重すぎる作品だった。
これまでの作品よりもBPMが遅い曲が多いのもその要因だ。
メロディは相変わらずいい曲が多い。全14曲55分。
あまりにも濃すぎるのだ。
「『ロック』であっても『ロール』が足りないなあ」なんて思ったんだ。

「フリーデビルジャム」「サタニックブンブンヘッド」「キラービーチ」・・・
このアルバムはタイトルも歌詞も悪魔を彷彿とさせるような曲が実に多かったが、
この頃からまさに「悪魔に魂を売った」かのような「何かを背負っている」かのような凄みを彼らから感じるようになった。
まあ一言でいえば
「ミッシェル、パワーアップしたもんだなあ・・・」
と感じたわけである。
そこには昔のミッシェルにあった軽快さとチンピラのようなたたずまいは希薄となっていた。

そしてこのアルバムリリース後、98年12月から「ワールドサイコブルーズツアー」がスタート。
このツアーはこれまでとは大きく異なるものであった。
1万人前後が入る大きなホールクラスの会場が主体であったのだ。
ツアーファイナルは1999年の1月17日に横浜アリーナで行われた。
これはライブハウス主体でツアーを行うミッシェルに対して
人気の高まりとともに「チケットがとれない」というファンの苦情が増えたための策であるとされている。
ここで特筆すべきはその会場の「観客席」である。
基本的に1Fアリーナ席の椅子は全部なくして、ブロック制にしてあくまでオールスタンディングにこだわるというライブ形式であった。大きいホールでもいままでどおりのライブスタイルを貫く。
なんともカッコええではないか。
そしてこの「アリーナ席をブロックにしてオールスタンディング」というやり方はこのあと多くのバンドがやるようになり、いまでは当たり前のやり方となっているが、間違いなく初めてやったのは98年のミッシェルなのだ。
さて肝心のライブの内容であるが、オレは当時もライブに行くことはなかったが、
横浜アリーナのライブはDVDとなってリリースされたので当然その内容は観ることができた。
そこではまるで「ギヤブルーズ」というアルバムが最初から横浜アリーナみたいなでっかいホールでやることを想定して作られていたかのように、アルバムの世界が実に鮮明に展開されていた。

チキンの死霊から
悪魔へ
小文字のthee michelle gun elephantから
大文字のTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTへ
ライブハウスから
でっかいホールへ

そうなることが当然だったかのように
彼らはパワーアップしていた。

横浜アリーナライブはいまでも1つの伝説となっているようである。
がしかし、このあとも彼らの「ギヤブルーズ」の想像を絶する世界は続くのであった・・・。

続く!!!

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