2010年7月15日木曜日

オレとミッシェルガンエレファント。 1998年


1998年はミッシェルにとって激動の年だったと断言できる。
まさに過渡期。

まず1月から「ワールドチキンゾンビーズツアー」がはじまった。
全52公演。
しかも会場は狭いライブハウスが中心。

あんな凶暴なアルバムをだして
その上これまでよりも本数を増やしたライブツアーを実行。
まさにノリにのってる状態である。
といっても当時大学2年のオレは相変わらず部活ばかりの毎日で
彼らのライブに行くことはなかった。
が、雑誌などを読み漁り彼らの近況をチェックしてはいた。

この頃になると数ある雑誌の中でも「ロッキンオンジャパン」がミッシェルをやたらと登場させるようになり、必然的にロッキンオンジャパンを購入することが多くなった。
チキンゾンビーズツアーのレポートものっていたが、
当時の編集長山崎洋一郎がレポートしており、
ライブ中のアベの様子を「鬼がいた」と表現。
「ああ、いままでよりも凶暴化してんだなあ。」
そんなことを思いながらCDを聴く毎日だった。

チキンゾンビーズツアーが終わり、
春がきて夏になった。

8月1日に彼らはひさびさにシングル「G.W.D」をリリース。
ファンがそうするのが当然のように、オレは1日前の7月31日に「G.W.D」を購入。
相変わらずの音の汚さに驚いた。「ゲットアップルーシー」もすごかったけど
もっと音がドシャドシャしてる。
調べるとやはり昔風の「パスウェイスタジオ」というこだわりのスタジオでレコーディングしたのであった。
最初「『G.W.D』ってなんだよ?」と疑問におもったのだが
1回聴いてその意味はあっさり判明。
「がなる われる だれる 声が」
サビのこのフレーズのカシラ文字をとったわけだ。
しかしそれをそのままシングルのタイトルにしてしまうとは・・・
なんかもう怖いものなしだなあ。

そしてその「がなるわれるだれる」シングルリリースから1日しか経っていない8月2日。
事件はやってきた。
舞台は豊洲。
フジロックフェスティバルである。
97年にはじまって2回目のフジロック。
第1回は富士山近辺で開催であったが台風の直撃により2日目中断という事態に終わった。
その反省を踏まえ2回目は成功することを前提として豊洲の埋立地で行われたのであった。

このときのミッシェルのライブは彼らのロックバンドとしての勢いを象徴するものであった。
いまではその様子をDVDで見ることができるが、まあやばいっすよ。
1曲目「CISCO」から中断の嵐。
興奮した客が暴れすぎて将棋倒しになっていたらしい。
2曲目でリリースしたての「G.W.D」をやるが、
観客は興奮しないわけがなく、やはり倒れる客が多数でたため、1コーラスで中断。
このときのアベは中断を伝えるスタッフの手を振りほどいてギターを弾いていた。
「チキンゾンビーズツアー」を境にアベの暴れっぷりは激しさを増したのは間違いない。

彼らのこのときのライブの模様はこの夏の音楽雑誌でやたらと話題になっていた。
洋楽雑誌でさえ「一番地面が揺れたのはミッシェルガンエレファントだった」と書いていた。
オレは当時この記事を読んで彼らを誇りに思ったねえ。

そんなわけで8月にその勢いと存在感を日本全国のロックファンに思う存分アピールしたミッシェルだったが
9月にも連続してシングル「アウトブルーズ」をリリース。
これまた理屈が通用しないようなぶっとんだ名曲だった。

そして秋にはアルバムリリースの情報も入り、
10月にはいるとアルバムの先行シングルである「スモーキンビリー」をリリース。
「愛という憎悪!!!」
とチバユウスケが叫ぶサビの前のブレイクを聴いて
正直「なんだか分かりやすくなっちゃったなあ」なんて思ったりもした。
そしてそして11月にはこの勢いをそのまま日本にたたきつけるかのような大作である4枚目のアルバム「ギヤブルーズ」がリリースされたのであった。

続く!!!

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

いつもこっそり読ませてもらってます。
初コメントです。
自分は1年程前にミッシェルを知った新参者なので原体験した方の日記が読めるのはうれしいです。
次も楽しみにしてます。